新聞は真実をつたえているか?
昨年暮れの会社に向かう道すがら、ある新聞社が「号外です!」と言いながら新聞を配っていた。
たいてい僕は通勤中5分くらいはスマホでニュースをチェックしているけれど、「号外がでるほどのニュースがあったかな」と思いながら、その「号外」を受け取ってみた。
中身をみてみると、なんのニュースも載っていない。あるのはとある家電メーカーのデカい広告で、つまりその企業の新商品発表をビッグニュースとして扱い、広告的に“号外”を出しているようで僕にとっては無意味なものでした。(言うほど話題にもなってませんでしたが。)
それに反して、東京オリンピックが決まった日の翌日は新聞が休刊日。特別版でも出してもよさそうなものだけれど、それがなかった。ただ、少なくともぼくの周りでは新聞が無くても誰も困っていなかった。
この新聞というメディアは今後どうなっていくのでしょうか。
新聞の役割
新聞はもはや情報の速さでいえばネットにはかなわない。だとしたら新聞というメディアの位置づけとしては、新聞が本来持つ力である「深く知らせる」という役割が重要になってくるはずです。
記者たちは事件や出来事の全体像をとらえ、読者が知りえない情報の裏付けをとって事実を書く。
即時性があっても裏付けがなかったり、誰かのガセであったりするネットの情報と差別化を図って、確かな情報源としてのメディアになる必要があるのではないかと思います。
新聞というメディアの今後
ところがそうはなっていないようです。
長谷川幸洋氏の書いた「2020年新聞は生き残れるか」という本に、現在の新聞制作側の状況などが詳しく書かれています。
新聞には新聞の役割りがあるのではないか?それは「2020年~」にも書かれていて、そこで指摘されているのは、
- 果たして新聞は真実を伝えているのか?
- 新聞記者は政治家や官僚が言う政策を理解し論じることができるのか?
- 官僚の嘘や偽りを見抜くことができるのか?
それらを鋭く、事実を踏まえて切り込んでいて、新聞をつくる側の認識や現実の問題点を暴いています。
『社畜』という言葉はご存知の方も多いと思います。一般的倫理観などを失って、組織に隷属的な人を指してつかいますが、官僚や政治家に飼いならされた記者たちを特ダネになりうるネタほしさに社畜ならぬ“ポチ”になりさがっていると指摘しています。
映画や小説で描かれるようなサスペンス劇がこの本で事実として書かれているのは衝撃的でした。
先日の都知事選で細川元首相が「脱成長」と主張しました。
日本は「借金が1000兆円」だと大騒ぎします。もちろんとんでもない額です。人口が少なく失業率が高く成長率も低い国ならギリシャと同じ状況でしょう。しかし日本はそうなりません。
PB指標などで成長を見ているので、単に借金がたくさんあるから危ないとはなりません。でもそこで「脱成長」をやってしまうと、少子高齢化がますます進む日本では本当に危機に向かって進むことになります。
そうした危険性を読者に理解させず、新聞各社のメンツだけで特定の議員を否定したり批判したりする。
もはやネット同様に、新聞を疑わなければならない状況になってきているのは新聞というメディアにとっては致命的ではないでしょうか。
近年の広告費の動向は、Webの台頭によって既存メディアの売上げすら脅かし、広告収入は一年ごとにWeb広告が雑誌、新聞をぬき、昨年末ついにアメリカではテレビ広告収益を超えました。
新聞社各社もWeb版のみを発行したりと手を打っています。
(昨年末ニュース:「2013年の米ネット広告売上高、テレビを上回る可能性 初めて400億ドルを突破する見込み」)
そうした中、新聞は資金面でも持続性は厳しくなるでしょう。
読後感はなんだかさわやかでした。今までもう少しはマシかと思っていたけど、事実を伝えてない時点で新聞の時代は終わりつつあると納得すらしてしまいました。
これは老若男女、全ての日本人が読むべきだと感じました。途中、GDPだのと若干小難しい記述はありますがそこは飛ばしても大丈夫です(理解しやすく書かれているので、もちろんちゃんと読んだほうがもちろんいいですけど)。
新聞記事が書かれる真の裏側が丸見えです。
キュレーションにも見られるように、あるもの事に対して深掘りしていくスタイルが一つのトレンドとしてある中で、新聞はもはやそれすらも追えていないような気がします。
とにかく、新聞にはもっと頑張ってほしいですが、読み手も情報をしっかり取捨選択できるよう日々勉強したほうがいいですね。でないといつまでたっても新聞だけに振り回されてた無邪気な時代から抜け出せませんから。